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茗荷谷の林泉寺は「縛られ地蔵」(縛りとも)ひとつとってみても,由緒深いお寺であるが、その本題は一応別としてその界隈、近辺のことなどを書いてみたい。

まず、茗荷谷の地名だが、かの佛教説話を思い起こさせて興味深い。(ご存じの方も多かろうが、イントロにつきお許しを願う)

それは釈尊の弟子の周梨般陀迦(シュリハンダカ)という人にまつわる話で、彼は頭脳にかけては全くのゼロ。自分の名前もおぼえてられぬほどだったという。そこで釈尊は彼の首に名前を書いた札をぶらさげだが、結局は誰からも尊敬される覚者になった由。彼の死後そのお墓に見慣れぬ草が生え、みんなは彼が名札をさげていたことを思い出して、名を荷うというその草を茗荷と呼ぶことにした。…という話は大人になってから本を読んで知ったものだが、茗荷を食べると物忘れすることは、子供の頃からよく聞かされもしたし、「旅人と茗荷」という童謡が懐かしい。

ところで茗荷というものは日当たりの悪いジメついたところに生えるように思うがいかが? ものの本に「茗荷谷は七間屋敷の処の谷なり。むかしこの所へ多く茗荷を作りしゆへの名なり」とあるそうだが、やはり「谷」なればこその茗荷だったのだろうか。ただ問題は「作りし」とあるけれども、ワザワザ作ったものだろうか。近辺の例では江戸川橋から早稲田にかけても茗荷田が広がっていたと云うが、いずれも殆ど自生のものと考えたい。

さて茗荷「谷」があれば茗荷「坂」ありで、「拓殖大学と深光寺との間を茗荷谷駅の方へ上る坂」がそれである。そこでおもしろいのは、周梨般陀伽の坂に対して、釈迦坂が近くにあること。それは春日通りに面した角から入る坂で、徳雲院の裏手をめぐるようにして下る。下り切ったところは蛙坂(復坂とも)に向き合う格好である。その名の由来は徳雲院の釈迦像によるとも、釈迦に似た墓石があったとも云われ、定かでない。(徳雲院は至道無難禅師の墓所と聞いており、時折足を運ぶのだが、境内は関係者以外立入禁止となっていることもあって確認できていない。ご存じの方あれば教えてください)「谷」があり「坂」がある以上、茗荷谷「町」もあったのはもっともで明治二年に林泉寺門前と共に小日向三軒町に合した。しかし同五年には戸田淡路守の下屋敷(現拓大)などの旧武家地を合併して再び茗荷谷町に戻ったとのことである。

shaka1この三軒町のことだが、現在の茗荷谷駅の近くと推定される。そこでちょっとしたことをご披露しよう。それは林泉寺を裏口から出て春日通に達したところに牛丼屋がある。これに隣接したビルが「三軒町ビル」という。現中央線「四谷」が「四つ家」であったと言われるように、この辺も「三軒」がポツンと建った淋しいところであったのか。

更に付記すると、これはこの辺りの郷土史研究家から伺った話だが、現小石川の寺院は武家の住居がお寺になったケースが多いそうである。これに乗って話を進めれば、林泉寺もモトは伊藤半兵衛さん(後出)の住居地であったのかもしれない。

先に茗荷生息地のイメージとしてジメついた日当たりの悪いことと書いたが、現在の地名は小日向である。恵まれた日照を意味する地名であろう。又目白台、関口台、小石川台に隣接する台地である。これらの台地の間には川が流れていただろう。今でも神田川があるが、地表から姿を消した千川や弦巻川もあった。又牛天神には「網干坂」があって往時海辺であったことを示している。従ってこの辺りは一等の住環境であったろう。本郷(中心のサトの意)の周辺に湯島(特に妻恋)、小日向等が散開していたと考えると楽しい。

もとより茗荷「谷」はしめった土地柄かもしれぬが、改撰江戸志に「なごりのめうが畠すこしのこれり」(下線佐々木〉とも見える由で、だとすればこの頃すでに茗荷イメージは薄くなっていたのかもしれない。

前出の深光寺は、現在わが林泉寺の隣り寺で、南総里見八犬伝の滝沢馬琴の墓所。地下鉄丸ノ内線(昭和二十九年開設)の茗荷谷駅近くの線路地はもとこのお寺さんの寺領だったそうで、営団に譲ったときの条件が茗荷谷の名を残すことだった由。今や茗荷谷は駅名としてしか存在せず、さすれば深光寺も忘れられないお寺さんではある。

ところで先に林泉寺門前と書いた。門前開設にはおカミ(寺社奉行?町奉行?)の認可が必要だった由。内藤新宿の開設にも莫大な認可料を納めたとのことであるが、林泉寺門前開設にはどんな話があったのだろう。

手許の古地図(天保十四年版〉を見ると、林泉寺を最北端にしてお寺が四ヶ所つらなっている。でありながら「林泉寺門前」と云われるのは寺格の高さを示すのであろうか。

それにつけても気になることがひとつある。毎週月曜と水曜日に坐禅のため茗荷谷駅から林泉寺に急ぐ我々の左側は相当高い崖である。背丈の二、三倍の高さの石積みである。お寺にはいる時もかなりの石段をあがる。つまりこの辺りは東から西にかけてさがる傾斜地である。しかし同時に、すぐに再び高くなるのである。クリーニング屋辺りの裏手には崖面が見えるし、お寺から拓大正門にかけても、上り坂である。つまり小日向と小石川台のあいだの谷間だと云えよう。 (林泉寺の下あたりが清水谷と呼ばれ、昭和四十一年までは清水谷町という町名があったとのことで、これは今のうちに聞き込み調査をしておきたいところ)。

myouga1問題はこんな地形のところにナゼ、どうして茗荷「坂」が開かれたのだろう。パワーショベルもない、ダンプもない、大体、近隣に住む人も少ないのである。せいぜいが百姓町屋と武家地である。現在の拓大正面から三井住友銀行研修所に通ずる道は平坦でズッと工事もラクだろうろうに、この道は古地図にはないのである。

この答えは林泉寺の佛徳によるということなのだろうか。いや果たしてお寺が先で道は後から出来たのだろうか。慶長七年(一六〇二年)の開基、武士伊藤半兵衛さんに当時の話をして貰いたくもなろうというものである。そうこの一六〇二年だが、今年は二〇〇二年です。われらの林泉寺の歴史は丁度四〇〇年という訳です。

とまれこの茗荷坂は、崖地に伴う天然自然の風水が長年にわたって働いた相(スガタ)であろう。あるいは谷に沿うけもの道が長い年月をかけて今日の姿になったもので、トテツもない大工事が一挙に施工されて現在の姿になったようなものではないのだろう。

ただ事のついでに夢をふくらませば「崖下に清水の涌き出づるありて渓を為す。これを包むに閑林を以てす。故に名付けて林泉と呼ぶ」というのはどうだろう。渓声便チ広長舌、山色清浄身ニ非ザルコトナシ…・・・とこうなると林泉寺贔屓の引き倒しである。諸氏の寛怒を乞うて終わりとする次第である。

佐々木 巌